氷河期世代は本当に努力不足だったのか(前半)
就職氷河期世代は、「努力不足だった世代」と語られることがあります。
「就職できなかったのは本人の努力が足りなかったから。」
「もっと資格を取れば良かった。」
「もっと行動していれば人生は変わっていた。」
そんな言葉を耳にしてきた人も少なくないでしょう。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。
私は52歳になった今、自分自身の人生だけでなく、同世代の歩みを振り返る中で、「努力不足」という一言では到底説明できない現実があったと感じています。
もちろん、努力をしなかった人もいたでしょう。
ですが、それ以上に、努力をしても報われなかった人があまりにも多かった。
今回は、就職氷河期世代が置かれた社会背景を振り返りながら、「努力不足」という言葉の本当の意味について考えてみたいと思います。
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努力しても入口がなかった時代
1990年代後半、日本はバブル崩壊後の長い不況に入りました。
企業は新卒採用を大幅に縮小し、多くの学生が就職活動で苦戦することになります。
それまで当たり前だった新卒一括採用は一気に狭き門となり、「募集そのものがない」という企業も少なくありませんでした。
説明会には何百人もの学生が集まり、履歴書を何十社送っても面接にすら進めない。
ようやく面接まで進んでも、「今年は採用を見送ります」と言われる。
そんな状況が全国で起きていました。
つまり、努力以前に席がなかったのです。
受験で言えば、定員100人だった学校が突然10人しか募集しなくなったようなものです。
どれだけ勉強しても、合格できる人数そのものが大幅に減ってしまえば、多くの人が不合格になります。
それでも社会は、
「努力が足りない。」
という言葉で片付けてしまいました。
自己責任論が広がった時代
就職できない理由は景気だけではありませんでした。
当時は「自己責任」という言葉が社会全体に広がり始めた時代でもあります。
仕事が見つからない。
非正規雇用しか選べない。
生活が苦しい。
そうした問題まで、「本人の努力不足」と考えられる空気がありました。
もちろん、自分で努力することは大切です。
私自身も、「努力は人生を変える力がある」と今でも思っています。
しかし一方で、努力だけではどうにもならない現実もあります。
景気。
企業の採用方針。
社会制度。
これらは個人では変えられません。
努力を否定するつもりはありません。
ですが、「努力だけですべて決まる」と考えることもまた、現実を見誤ってしまうのではないでしょうか。
私自身も「努力すれば報われる」と信じていた
私も若い頃は、「努力すれば人生は変えられる」と信じていました。
高校卒業後は、新聞配達をしながら浪人生活を送り、大学受験に挑戦しました。
その後も店長として働き、27歳でカナダへワーキングホリデーに挑戦し、英語を学び、さらにニュージーランドでも働きました。
帰国後も転職や起業など、何度も新しい挑戦を繰り返してきました。
決して順風満帆だったわけではありません。
自己破産も経験しましたし、会社を休眠させたこともあります。
それでも、その時々で自分なりに前を向き、「次こそは」と努力を続けてきました。
だからこそ思うのです。
努力は決して無駄ではありません。
しかし、努力だけで人生が決まるほど、社会は単純ではない。
これは私だけではなく、多くの氷河期世代が感じてきたことではないでしょうか。
努力した人ほど苦しんだ人もいた
氷河期世代には、資格を取り続けた人もいました。
転職を繰り返しながら経験を積んだ人もいました。
派遣社員として働きながら正社員を目指した人もいました。
海外へ飛び出して可能性を探した人もいました。
決して何もしてこなかったわけではありません。
むしろ、「何とか人生を変えたい」と必死にもがいていた人が多かった世代だと私は思います。
それでも時代の波は大きく、思うような結果につながらなかった人も少なくありませんでした。
だから私は、「氷河期世代は努力不足だった」という言葉には強い違和感があります。
それは、当時を生き抜こうと必死だった人たちの姿を見ていない言葉だからです。
後半では、「努力信仰」が日本社会に与えた影響や、氷河期世代が今も抱える課題について考えながら、それでも私たちが未来を諦める必要はない理由を掘り下げます。
そして次回は、**「私たち氷河期世代が失った30年」**というテーマで、失われたのは景気だけではなく、人生の選択肢や時間だったのではないかという視点から考えていきます。
「努力信仰」が見えなくしたもの
努力は大切です。
私自身も、努力そのものを否定するつもりはまったくありません。
ですが、「努力すれば必ず報われる」という考え方だけが広まると、報われなかった人は「努力しなかった人」と見なされてしまいます。
これは、とても危険な考え方ではないでしょうか。
人生には、自分ではどうにもできない要素があります。
生まれた時代。
景気。
家庭環境。
健康。
地域格差。
こうした条件は、自分の意思だけで変えることはできません。
もちろん、その中でも努力によって道を切り開いた人はいます。
しかし、その成功例だけを基準にしてしまえば、同じように努力しても結果につながらなかった多くの人の存在が見えなくなってしまいます。
社会を正しく見るためには、「努力」と「時代背景」の両方を見る視点が必要なのだと思います。
氷河期世代が抱え続けたもの
就職氷河期は、一時的な出来事ではありませんでした。
非正規雇用から抜け出せなかった人。
十分な収入を得られず、結婚や子育てを諦めた人。
老後への不安を抱え続けている人。
社会に出る最初の数年間でつまずいたことが、その後の人生全体に大きな影響を与えました。
だからこそ「失われた30年」という言葉は、経済だけを表しているのではありません。
一人ひとりの人生にあったはずの選択肢や可能性までも失われてしまったという意味でもあるのです。
もちろん、すべてを社会のせいにするつもりはありません。
私自身、失敗した原因が自分にあったことも数多くあります。
自己破産や起業の失敗など、反省すべき経験もありました。
それでも振り返ると、「もっと努力すれば何とかなった」と簡単には言えない出来事も少なくありません。
だから私は、自分自身にも、同世代にも、「努力不足だった」と決めつけることはできないのです。
それでも、今からできることはある
52歳になった今、私はブログやnoteで情報発信を続けています。
AIを学び、新しい働き方を模索しながら、「人生は何歳からでも変えられる」と信じて挑戦しています。
若い頃と同じスタートラインには立てません。
失った時間も戻ってきません。
ですが、これからの人生をどう生きるかは、自分で決めることができます。
氷河期世代は、社会の変化に翻弄された世代でした。
だからこそ、変化に適応する力も身につけてきた世代だと私は思います。
会社だけに依存しない働き方。
AIを活用した情報発信。
経験そのものを価値に変える時代。
私たちには、まだ挑戦できる場所があります。
「もう遅い」ではなく、「ここから始める」。
そんな生き方を選ぶ人が一人でも増えれば、日本社会も少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
まとめ
「氷河期世代は努力不足だった。」
この言葉だけでは、あまりにも多くの現実が置き去りにされています。
努力した人もいました。
挑戦し続けた人もいました。
それでも時代の波に飲み込まれ、思うような人生を歩めなかった人が数多くいます。
だから私は、「努力不足だった世代」ではなく、「努力だけでは乗り越えられない時代を生きた世代」と考えています。
そして今、私たちには過去を語るだけではなく、その経験を次の世代へ伝える役割もあるのではないでしょうか。
次回は 「私たち氷河期世代が失った30年」 をテーマに、失われたのは経済だけではなく、人生の時間や選択肢だったという視点から考えていきます。


