私は不燃物になった。心に炎がなくなった。|50代になって気力がなくなった僕が、それでも動けること

それでも動けること

最近、自分のことを「不燃物」だと思うことがある。

火をつけようとしても、なかなか燃えない。

やる気が出ない。

何かを始めようと思っても、体が動かない。

「今日は何かやろう」と思っていても、気がつけば寝ている。

そして、起きても何もしたくない。

今日もそうだった。

10時間以上寝た。

それでも、エネルギーが戻ってこない。

「今日もか……」

そんな気持ちになった。

でも、よく考えてみると、これは今日だけの話ではない。

かなり長い間、こんな感覚を抱えている。

昔の自分は、もっと行動していた

今の自分からすると、少し信じられない。

26歳の頃、僕は上場企業を辞めた。

その後、トヨタの工場で1年間働いた。

そして、カナダに1年。

ニュージーランドにも1年。

海外に行き、知らない場所で生活した。

今思えば、かなり行動力があった。

「やってみたい」と思ったら、とりあえず動いていた。

帰国してからも、転職を繰り返した。

ネットワークビジネスをやったこともある。

うまくいかなかったことも、たくさんあった。

もちろん、楽しかったこともたくさんあった。

決して順風満帆な人生ではなかった。

むしろ、かなり遠回りしてきたと思う。

それでも、若い頃の自分には「やってみよう」と動く力があった。

何度も挑戦して、だんだん疲れていった

人生には、うまくいくことばかりではない。

挑戦する。

失敗する。

また挑戦する。

少しうまくいったと思ったら、また何かが崩れる。

「今度こそ」と思う。

そして、またやってみる。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、少しずつエネルギーがなくなっていった。

一時期は、自己啓発本にも助けられた。

本を読むと、

「よし、やろう!」

と、一時的にやる気が出る。

数日、あるいは数週間くらいは頑張れる。

ところが、しばらくすると元に戻る。

また本を読む。

また少しやる気になる。

そして、また戻る。

その繰り返し。

やがて、自己啓発本を読んでも、以前ほど心が動かなくなった。

「考え方を変えれば人生は変わる」

「行動すれば未来は変わる」

「夢を持とう」

言っていることは分かる。

たぶん、その通りなのだと思う。

でも、

「……そうなんだけどな」

と思ってしまう。

心の中に、以前のような炎がない。

「私は不燃物になった」と思った

そんな自分を、最近は「不燃物」と表現するようになった。

燃えない。

火がつかない。

大きな目標を掲げても、心が動かない。

「人生を変えるぞ!」

そんな大きな炎は、もうない。

人生なんて、どうでもいい。

そんな気持ちになって、連絡先を消したこともある。

今、スマートフォンに登録されている連絡先は、母親と兄くらいしかない。

人とのつながりも、自分から切ってしまった。

「これから何をしたい?」

そう聞かれても、答えが出ない。

昔なら、

「海外に行きたい」

「こんな仕事をしたい」

「これをやってみたい」

そんなものがあった。

今は、そこまで強いものがない。

それでも、少しだけ動ける時がある

ところが、不思議なことがある。

そんな自分でも、少しだけ動ける時がある。

それは、

楽しいと思えることを見つけた時だ。

AIで音楽を作る。

SIG9NALというプロジェクトを作る。

MeisaというAIアーティストを作る。

曲を作って、MVを作る。

「これ、ちょっとカッコいいな」

と思う。

NIPPON ARTWORKSで日本をテーマにしたアートを作る。

「この絵、いいじゃん」

と思う。

雑学・心理学・都市伝説の動画で、スマイルくんを動かしてみる。

ブログを書く。

noteを書いてみる。

そんな時だけ、ほんの少し体が動く。

昔のような大きな炎ではない。

でも、小さな火はつく。

やる気があるから動くのではない

ここが、最近の自分にとって少し面白いところだ。

僕は「やる気が出たから行動している」のではない。

むしろ逆なのかもしれない。

やる気がなくても、ちょっと面白そうだから触ってみる。

それをやっているうちに、少しだけ気分が動く。

「もう一回やってみようかな」

と思う。

それだけだ。

昔のように、

「人生を変えるぞ!」

という感じではない。

もっと小さい。

「これ、ちょっと面白いな」

くらい。

でも、今の自分には、それくらいがちょうどいいのかもしれない。

50代になると、人生との付き合い方も変わる

若い頃は、大きな炎が必要だった。

夢を持つ。

目標を決める。

努力する。

前に進む。

それができた。

でも、人間は何十年も同じエネルギーで生き続けられるわけではない。

何度も挑戦すれば疲れる。

失敗すれば傷つく。

期待すれば、その分だけ落胆することもある。

そして何度も立ち上がっているうちに、いつの間にか心の燃料が少なくなっていることもある。

だから今は、

「もっと頑張らなければ」

とは、あまり思わなくなった。

それよりも、

少しでも楽しいと思えるものを大切にしたい。

そう思っている。

「何もしたくない」は、怠けなのだろうか

以前の自分なら、何もできない日があると、

「自分はダメだ」

と思っていた。

もっと頑張らなければいけない。

もっと行動しなければいけない。

他の人は頑張っているのだから、自分も頑張らなければいけない。

そんなふうに考えていた。

でも、今は少し違う。

もちろん、何もせずに過ごすことが続けば、生活に困ることもある。

だから何でも「そのままでいい」とは思わない。

ただ、

「今日は動けない」という事実と、「自分には価値がない」ということは別の話だ。

そこは分けて考えていいのではないかと思う。

今日は何もできない。

それでもいい。

翌日、少しだけ何かをやる。

それでもいい。

毎日100%で動けなくても、人間としては当たり前なのかもしれない。

不燃物にも、できることはある

「不燃物」という言葉は、普通なら悪い意味だと思う。

燃えない。

役に立たない。

でも、本当にそうなのだろうか。

大きな炎を出せなくなっただけで、何もできなくなったわけではない。

僕は今でも、音楽を作っている。

アートを作っている。

動画を作っている。

ブログを書いている。

AIを使って、新しいことを試している。

毎日できるわけではない。

何日も何もしないこともある。

それでも、また何かを触りたくなる時がある。

だったら、それでいいのかもしれない。

心の炎は、本当に消えたのだろうか

僕は自分のことを「不燃物」だと思っている。

心に炎がない。

何かを頑張ろうという気力もない。

人生そのものを、どうでもいいと思ってしまうこともある。

でも、それでも僕は今日、こうして文章を書いている。

AIで音楽を作っている。

アートを作っている。

動画を作っている。

「これ、面白いな」と思うことがある。

だったら、完全に何もなくなったわけではないのかもしれない。

大きな炎じゃない。

焚き火ですらない。

マッチを擦った時に、一瞬だけ見える小さな火くらいかもしれない。

それでもいい。

今は、その小さな火を無理に大きくしようとしなくてもいい。

これからは、小さな火を大切にしてみる

昔の自分と今の自分を比べると、

「昔はもっと行動できたのに」

と思う。

26歳で会社を辞めた。

トヨタの工場で働いた。

カナダに行った。

ニュージーランドに行った。

いろんな仕事をした。

いろんなことに挑戦した。

そんな自分と比べれば、今の自分はずいぶん動かなくなった。

でも、もう昔の自分に戻ろうとしなくてもいいのかもしれない。

昔と同じ大きな炎を取り戻す必要もない。

今の自分には、今の自分にできることがある。

「ちょっと面白そう」

「これ作ってみたい」

「これは好きかも」

そんな小さな感覚を大切にする。

それだけでもいい。

人生を劇的に変えなくてもいい。

毎日頑張らなくてもいい。

小さな火がついた時だけ、少し動いてみる。

それでいい。

私は不燃物になった。でも、まだ終わってはいない

私は不燃物になった。

心に炎がなくなった。

そう思うことがある。

でも、今日もこうして何かを書いている。

そして、また面白そうなものを見つけたら、きっと触ってみる。

大きな夢がなくてもいい。

人生を変えるほどの目標がなくてもいい。

「ちょっと面白い」

その感覚が残っているなら、それを大切にしてみようと思う。

もしかすると、

心の炎は消えたのではなく、小さくなっただけなのかもしれない。

今は、無理に燃え上がらせなくてもいい。

消えないように、そっと守っていけばいい。

そして、また何かに「面白い」と思えた時、その小さな火を少しだけ大きくする。

それくらいの人生でも、いいんじゃないか。

私は不燃物になった。

でも、まだ完全に火が消えたわけではない。

今は、それだけでいい。