働く義務より「生きる権利」を考えてみた

働く義務より「生きる権利」を考えてみた

はじめに|「働かざる者食うべからず」に縛られてきた

日本では昔から、
「働かざる者食うべからず」
という言葉がある。

もちろん、働くことは大切だ。

社会の中で役割を持つこと。
誰かの役に立つこと。
自分の生活を自分で支えること。

それ自体を否定するつもりはまったくない。

私自身も、10代の頃から働いてきた。
新聞配達をしながら予備校に通ったこともあるし、飲食店の店長として働いたこともある。海外でも皿洗いやキッチンの仕事をしてきた。

だから、働くことの大切さは分かっているつもりだ。

でも、52歳になって憲法を読み直してみて、少し考えが変わった。

本当に先に考えるべきなのは、
「働く義務」なのだろうか。

それとも、
「生きる権利」なのだろうか。

今の日本では、働けない人、うまく社会に適応できない人、失敗した人に対して、すぐに「自己責任」という言葉が向けられる。

しかし、人は働くために生まれてきたのではない。

まず、生きている。
その上で、働く。

この順番を、私たちはどこかで忘れてしまったのかもしれない。

日本人は「義務」は教わるが「権利」は深く教わらない

学校で憲法を習ったとき、多くの人が覚えているのは「国民の三大義務」ではないだろうか。

教育の義務。
勤労の義務。
納税の義務。

私もそうだった。

「国民には義務がある」
「働くことは義務である」
「税金を納めなければならない」

そういう感覚は、子どもの頃からなんとなく身についていた。

一方で、権利についてはどうだっただろう。

基本的人権。
幸福追求権。
生存権。
法の下の平等。

言葉としては習ったはずだ。

でも、それが自分の人生とどう関係しているのか。
困ったときに自分を守るものなのか。
社会が個人をどう支えるべきなのか。

そこまで深く考える機会は、ほとんどなかった。

少なくとも私は、52歳になるまで憲法を「自分ごと」として読んだことはなかった。

正直に言えば、憲法は政治家や法律家のものだと思っていた。
自分のような普通の人間には、あまり関係ないものだと思っていた。

でも、実際に読んでみると違った。

憲法は、国を縛るためのものでもある。
そして、国民一人ひとりの権利を守るためのものでもある。

つまり、本来は私たちの生活にかなり近いものだった。

働くことは大切。でも「人間の価値」ではない

働くことは大切だ。

これは間違いない。

仕事を通して、人は社会とつながる。
収入を得て生活を支える。
誰かに感謝されることもある。
自分の成長を感じることもある。

私も働く中で、多くのことを学んできた。

飲食店の現場では、人を動かす難しさを知った。
海外では、英語が完璧でなくても働けることを知った。
失敗しながらも、働くことで自信を取り戻した時期もあった。

だから、働くことそのものを否定する気はない。

ただし、働いているかどうかで、人間の価値を決めてはいけないと思う。

ここを間違えると、社会は一気に冷たくなる。

働いている人は偉い。
働けない人は甘えている。
失業している人は努力不足。
生活に困っている人は自己責任。

こういう空気が強くなればなるほど、人は助けを求めにくくなる。

私自身も、人生の中で何度も立ち止まった。

会社を辞めたこともある。
事業で失敗したこともある。
暗号資産詐欺で300万円以上を失ったこともある。
自己破産も経験した。
メンタルが落ちて、思うように動けない時期もあった。

もちろん、自分の判断ミスもある。
反省すべきこともたくさんある。

でも、それでも思う。

人は失敗した瞬間に、価値がなくなるわけではない。

働けない時期があるからといって、
生きる権利まで否定されていいわけではない。

「働けない時期」は誰にでも起こり得る

多くの人は、元気なときには「自分は大丈夫」と思っている。

自分は働ける。
自分は稼げる。
自分は社会から落ちない。

そう思っている。

でも、人生は思ったより不安定だ。

病気になることもある。
家族の介護が始まることもある。
会社が倒産することもある。
景気が悪くなることもある。
メンタルが壊れることもある。

そして、年齢を重ねるほど、その可能性は現実味を帯びてくる。

50代になると分かる。
若い頃のように、気合いだけで何とかなることばかりではない。

体力も落ちる。
回復にも時間がかかる。
社会の変化についていくのも簡単ではない。

それでも日本社会には、まだどこかに
「働けないのは本人が悪い」
という空気が残っている。

私はここに違和感を覚えるようになった。

もちろん、何でも社会のせいにすればいいわけではない。

自分でできる努力はある。
行動を変える必要もある。
生活を立て直す責任もある。

でも、その前に、人には最低限守られるべき生活がある。

働けるかどうか以前に、
人として生きる権利がある。

この当たり前のことを、私たちはもっと正面から考えてもいいのではないか。

生きる権利があるからこそ、働く義務がある

日本国憲法第25条には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障されている。

これが、いわゆる「生存権」だ。

私は以前、この条文を「生活保護を受ける人のためのもの」くらいにしか考えていなかった。

しかし、それは大きな勘違いだった。

生存権は、特定の人だけの権利ではない。

病気になった人も、失業した人も、高齢者も、障害のある人も、そして今は元気に働いている人も含めて、すべての国民に認められている権利だ。

つまり、「人だから守られる」という考え方なのである。

そして、その土台があるからこそ、私たちは安心して働き、挑戦し、社会の一員として生きることができる。

私は以前、「働かなければ存在価値がない」と思い込んでいた。

会社を辞めたときも、事業に失敗したときも、自分には価値がないように感じた。

だから焦った。

早く結果を出さなければ。

早く成功しなければ。

そう自分を追い込み続けていた。

でも今振り返ると、その考え方が自分自身を苦しめていたのだと思う。

「働かない人」と「働けない人」は同じではない

最近は、「自己責任」という言葉を耳にする機会が増えた。

もちろん、自分の行動には責任が伴う。

私自身も失敗を繰り返してきたから、そのことは痛いほど分かる。

しかし、「働かない人」と「働けない人」は明らかに違う。

病気や障害で働けない人。

介護や家庭の事情で仕事を続けられない人。

心の病で朝起きることさえ苦しい人。

そうした人たちを一括りにして「甘え」と決めつけるのは、とても危険な考え方ではないだろうか。

誰でも人生のどこかで、助けが必要になる可能性がある。

だからこそ、社会保障制度があり、憲法があり、「生きる権利」が保障されている。

それは決して怠けるためではない。

もう一度立ち上がるための土台なのである。

権利を知ることは、義務を軽く考えることではない

この記事を読んで、「権利ばかり主張すればいい」と受け取ってほしいわけではない。

私が伝えたいのは、その逆だ。

権利を知っている人ほど、義務の意味も理解できるのではないかと思う。

安心して生きられる社会があるから、人は働くことができる。

教育を受けられるから、自分の可能性を広げられる。

法律に守られているから、安心して挑戦できる。

その環境があるからこそ、納税や勤労といった義務にも意味が生まれる。

権利と義務は対立するものではない。

どちらか一方だけでは成り立たない、車の両輪のような存在なのだ。

52歳になって憲法を読み直した今、そのことをようやく実感できるようになった。

まとめ|「まず生きること」がすべての始まり

私はこれまで、「努力すれば報われる」「働いてこそ価値がある」と信じて生きてきた。

もちろん、その考え方は今でも大切だと思っている。

しかし、それだけでは人生を説明できない。

病気になることもある。

失敗することもある。

社会の変化に翻弄されることもある。

そんなとき、人を支えるのは「もっと頑張れ」という言葉ではなく、「あなたには生きる権利がある」という社会の土台ではないだろうか。

働くことは大切だ。

でも、それ以上に大切なのは、生きること。

生きているからこそ、働ける日も来る。

挑戦できる日も来る。

私自身、人生を何度もやり直してきたからこそ、その順番の大切さを実感している。

52歳になって憲法を読み直し、「働く義務」より先に「生きる権利」があるという当たり前のことを、ようやく自分の言葉として理解できた。

そして、この視点は、これから日本社会を考えるうえでも欠かせないものだと思っている。


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次回予告

権利や義務について学ぶ中で、私が次に疑問を持ったのは、「なぜ日本ではこれほど生きづらさを感じる人が増えているのか」ということだった。

自己責任論、同調圧力、長時間労働、将来への不安……。

次回は社会全体に目を向けながら、

「なぜ日本は生きづらい国になったのか」

について、自分自身の経験も交えながら考えてみたい。