生存権とは「生きているだけでいい」という意味なのか
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はじめに
「生存権」という言葉を聞くと、「生きているだけでいい」「国が最低限の生活を保障してくれる権利」というイメージを持つ人も多いかもしれない。
私も52歳になるまで、そんな程度の認識しか持っていなかった。
しかし、日本国憲法第25条を学び始めて、その意味はもっと深いものだと知った。
実際、私は自己破産を2回経験し、失業も経験した。
暗号資産詐欺で300万円以上を失い、今年は一時、所持金が5円になった。
「もう人生は終わった。」
そう思った夜もある。
それでも今、私はブログを書き、noteを書き、AIを学び、新しい人生をつくろうとしている。
今回は、生存権とは本当に「生きているだけでいい」という意味なのか、一人の就職氷河期世代として考えてみたい。
生存権とは何か
憲法25条が保障しているもの
日本国憲法第25条には、
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」
が保障されている。
ここで重要なのは、「健康で文化的」という言葉である。
単に息をしていればいいという意味ではない。
食事があり、安全な住まいがあり、医療を受けられ、人間らしい生活を送れること。
それが生存権の考え方である。
「最低限度」は人それぞれ違う
時代によって基準も変わる
戦後と現代では、最低限度の生活は違う。
冷蔵庫も携帯電話もインターネットもなかった時代と比べれば、社会は大きく変化した。
今では就職活動も行政手続きもオンラインが当たり前になっている。
つまり、「最低限度の生活」は時代とともに変化していくものなのである。
だからこそ、生存権は固定されたものではなく、その時代に合わせて守られるべき権利なのだ。
私は生存権を知らなかった
「全部自己責任」だと思っていた
私は長い間、
「努力が足りなかった。」
「全部自己責任だ。」
そう思って生きてきた。
もちろん、自分の判断ミスもある。
浪費もした。
投資にも失敗した。
だから責任から逃げるつもりはない。
しかし、就職氷河期という時代背景や、日本の雇用環境、社会制度も人生に大きな影響を与えていたことを、50代になってようやく理解し始めた。
もっと早く憲法や社会制度を学んでいたら、違う選択肢も見えていたかもしれない。
海外で感じた「人間らしく生きる」という考え方
日本だけがすべてではなかった
カナダやニュージーランドで生活したとき、日本とは違う価値観に出会った。
仕事を辞めても人生は終わりではない。
休むことも人生の一部。
挑戦することも普通。
そう考える人が多かった。
もちろん海外にも貧困や格差はある。
それでも、「人間らしく生きる」という考え方を、日本より自然に感じる場面が何度もあった。
日本へ帰国してから、「自己責任」という言葉ばかり耳に入るようになった。
だからこそ、生存権という考え方を知ったとき、大きな意味があると感じた。
生存権は「挑戦する権利」でもある
生き延びるだけでは終わらない
私は今年、一度どん底まで落ちた。
それでも今は毎日記事を書き、AIを学び、情報発信を続けている。
もし、生存権が単に「生きているだけでいい」という意味なら、ここまで挑戦する必要はない。
しかし、人間らしく生きるということは、夢を持ち、学び、働き、誰かとつながり、自分らしく生きることでもある。
生存権は、「生き延びる権利」ではなく、「もう一度立ち上がる権利」でもあると私は考えている。
まとめ
52年間、生存権について深く考えたことはなかった。
しかし、憲法を学び始めてから、自分が知らないことの多さに驚いている。
権利を知ることは、誰かを責めるためではない。
自分を必要以上に責めないためでもある。
そして、人生をもう一度やり直す勇気を持つためでもある。
私自身、まだ勉強中だ。
だからこそ、このシリーズでは一緒に学び、一緒に考えていきたいと思っている。
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権利について学んでいると、ある疑問が浮かんできた。
「働くことは義務」とよく言われる。
では、その前に「生きる権利」はどう考えればいいのだろうか。
次回は、**「働く義務より『生きる権利』を考えてみた」**というテーマで、一人の就職氷河期世代として考えてみたい。


