日本国憲法は誰のためにあるのか|52歳で気づいた「権利」は失ってから分かるものだった【前編】
憲法と聞くと、正直、難しい。
学生時代に習った記憶はある。
「基本的人権」「国民主権」「平和主義」
たしか、そんな言葉を暗記した。
でも、若い頃の私は、憲法なんて自分の人生とは関係ないと思っていた。
政治家や法律家が考えるもの。
ニュースの中で議論されるもの。
試験に出るから覚えるもの。
そんな程度の認識だった。
しかし52歳になった今、少し考え方が変わった。
失業した。
お金を失った。
会社に頼れなくなった。
人間関係もリセットした。
手持ち5円になったこともある。
自己破産も経験した。
人生のいろいろなものを失ってから、ようやく気づいた。
憲法とは、強い人のためだけにあるものではない。
むしろ、人生につまずいた人、弱い立場に置かれた人、声を上げにくい人のためにあるのではないか。
今回は、憲法・権利シリーズの第1回として、
「日本国憲法は誰のためにあるのか」
について、法律の専門家ではない私の実体験から考えてみたい。
日本国憲法は「国民を縛る法律」ではない
まず、私自身が長い間、勘違いしていたことがある。
それは、憲法を「国民が守るルール」だと思っていたことだ。
もちろん、私たちは法律を守って生活している。
税金もある。
交通ルールもある。
社会の中で生きる以上、守らなければならない決まりはある。
でも、憲法の本質は少し違う。
憲法は、国民を縛るためのものではない。
本来は、国家権力を縛るためのものだ。
国が好き勝手に国民の自由を奪わないようにする。
権力を持つ側が暴走しないようにする。
一人ひとりの人間の尊厳を守る。
そのために憲法がある。
ここを理解すると、憲法の見え方が大きく変わる。
「国民は黙って従え」ではなく、
「国は国民の権利を侵してはいけない」
という考え方が土台にある。
若い頃の私は、そんなことを深く考えたことがなかった。
会社で働き、給料をもらい、なんとなく社会の流れに乗って生きていた時期は、権利について真剣に考える必要がなかったのかもしれない。
でも、人生が崩れた時に初めて分かった。
権利というものは、順調な時には意識しにくい。
失いそうになった時に、初めてその重みに気づく。
権利は、困った時にはじめて価値が分かる
私はこれまで、何度も人生をやり直してきた。
20代でカナダ、ニュージーランドへ行った。
帰国後は飲食業や外資系スーパー、上場企業などで働いた。
会社も作った。
しかし、うまくいかなかったことも多い。
暗号資産詐欺で300万円以上を失った。
自己破産も経験した。
そして50代になって、改めて社会の制度に助けられる場面が増えた。
ハローワークに行く。
失業手当の説明を受ける。
国民年金の減免申請をする。
住民税の請求に絶望する。
健康保険や年金、税金について考える。
若い頃の私は、こうした制度をどこか他人事のように見ていた。
でも今は違う。
制度は、人生が順調な人だけのものではない。
むしろ、人生が苦しくなった時にこそ必要になる。
働けなくなった時。
収入が途絶えた時。
病院に行かなければならない時。
生活を立て直さなければならない時。
その時に、社会の仕組みがあるかどうかで、人の人生は大きく変わる。
もちろん、制度には不満もある。
税金は高い。
住民税の請求を見て、「これは本当に厳しい」と思うこともある。
手続きも分かりにくい。
それでも、完全に自己責任だけで放り出される社会だったら、もっと多くの人が立ち上がれなくなる。
憲法に書かれている「健康で文化的な最低限度の生活」という言葉も、若い頃はただの教科書の言葉だった。
でも、52歳になった今は違う。
最低限度の生活とは、誰かの甘えの話ではない。
人間が人間として、もう一度立ち上がるための土台なのだと思う。
「権利を主張するな」という空気
日本では、権利を主張することに対して、どこか冷たい空気がある。
「権利ばかり言うな」
「まず義務を果たせ」
「自己責任だ」
「努力が足りない」
そんな言葉を聞くことがある。
たしかに、義務は大切だ。
働けるなら働いた方がいい。
税金も社会を支えるために必要だ。
人に迷惑をかけない努力も必要だ。
でも、権利を語ること自体を悪いことのように扱う社会は、少し危ういと思う。
なぜなら、権利はわがままではないからだ。
権利とは、人間が人間として生きるための最低限の土台だ。
特に氷河期世代として生きてきた私は、努力だけではどうにもならない現実を何度も見てきた。
就職の時代背景。
非正規雇用。
会社依存。
将来不安。
社会の変化。
もちろん、私自身にも失敗はたくさんある。
むしろ失敗だらけの人生だ。
でも、すべてを個人の責任だけで片づけると、社会の問題は見えなくなる。
憲法は、そういう時に立ち止まって考えるためのものでもあると思う。
人は本当に平等に扱われているのか。
生きる権利は守られているのか。
働く権利は保障されているのか。
声を上げる自由はあるのか。
これらは、遠い政治の話ではない。
毎日の生活そのものの話だ。
憲法は、人生につまずいた人ほど必要になる
順調に働けている時。
収入が安定している時。
健康で、人間関係にも困っていない時。
その時は、憲法や権利をあまり意識しないかもしれない。
でも、人生はいつ崩れるか分からない。
会社を辞めることもある。
病気になることもある。
メンタルが落ちることもある。
家族関係や人間関係が壊れることもある。
お金を失うこともある。
私自身、何度も「もう終わった」と思った。
それでも今、ブログを書き、noteを書き、ChatGPTを使いながら、もう一度人生を立て直そうとしている。
その過程で思う。
人は、何度でもやり直せる社会でなければならない。
そして、その土台にあるのが憲法であり、権利なのではないか。
憲法は、立派な人だけのものではない。
成功者だけのものでもない。
政治家だけのものでも、法律家だけのものでもない。
失敗した人。
お金を失った人。
孤独になった人。
働き方に悩む人。
社会の中で居場所を失った人。
そういう人のためにも、憲法はある。
少なくとも私は、52歳になってようやくそう感じるようになった。
後編へ続く
次回の後編では、カナダやニュージーランドで暮らした経験から見えた「日本の制度の良さと弱さ」、そして氷河期世代として憲法をどう考えるかについて書いていきたい。
憲法は、遠い世界の話ではない。
私たちの生活そのものを支える土台だ。
そして、人生をやり直そうとしている今の私にとって、憲法とは「もう一度立ち上がる権利」を考えるための入口でもある。


